から松くん 国産材の需要 --- 2001年6月11日


 木材需要が急激な高まりを見せたのは第2次大戦後の復興期です。
国土復興に加え朝鮮戦争の特需、そして所得倍増計画などが繋がりました。木材の値段は上がり続け、「もっと材木の供給を」の声が高まりました。そして1954年(昭和29年)の洞爺丸台風が国有林の積極経営に拍車をかけたのです。約1,500人の死者を出すとともに北海道の国有林だけで二千万立方メートルの風倒木被害をあたえました。「自然林から人工林へ」という動きはこの時に最高に達しました。
その
需要に答えるべく、
これまで林業適地とされなかった荒れ地に育ち
成長が早く
大量の収穫が見込まれる
などの要求を満たす樹種が求められカラマツが登場しました。
とにかく早く収穫できるから松を植えようという方針が、中部、東北、北海道で展開され、戦後造林事業の象徴となったのが、北海道の帯広営林局が林野庁の肝いりで57年から総力を挙げて取り組んだパイロットフォレストでした。
 根釧原野の湿地帯7,000ヘクタールをすべてカラマツ林に変えようとする壮大な計画で、計上された予算は5億円あまり。身の丈を超えるクマザサをかき分けて測量が始まり、立木のない湿原にまずナラやカンバの丸太を並べた浮き橋状の輸送路が設置されました。この道を通って建築資材とカラマツの苗が運ばれ、日本では初めての大型機械を使っての植林が始まりました。車やドイツ製トラクターに様々な下刈り用のカッターを装着してみたり、掘削機の刃物の形状を変えてみたり。ねずみやうさぎの害もバカになりません。現場はそれまでにない林業の形態に試行錯誤の連続となりました。最盛期には年間延べ6万人近くを投入したパイロットフォレストは「大規模機械化林業」の可能性をさぐるものでもありました。
 おりから世論は「伐れ、伐れ!」。この頃の新聞には「木材値上がり対策を閣議了承」とか「シベリア、樺太などからの北洋材の輸入急増」などの報道が続き、「安い木材を」「能率よく供給する」ことが国有林の至上機能と見られていました。
 通常、針葉樹の成長は広葉樹の倍と言われています。北海道の場合トドマツ、エゾマツが主力材ですが、カラマツはそれらが70年かかる大きさまで35年から40年で到達します。今、このパイロットフォレストは樹齢45年を迎えています。数回の間伐を経て堂々の巨木の森になりました。ただ、この時期の全国のカラマツ造林がすべて良い結果を得たわけではありませんでした。61年(昭和36年)、長野県で造林面積中50%、群馬県で27%もの高率を誇ったこの樹種は、数を増やすに連れ、いろいろな問題を見せはじめました。カラマツは節が多くヤニが出やすい、ねじれが生じやすく、間伐材の処理が難しい。おりから、間伐材の主用途とされた石炭鉱山の坑木需要が陰りはじめました。建材も安い外材がどっと入りはじめました。当時「カラマツ造林の成否が国有林の生産力倍強計画の鍵を握っているといっても過言ではない」と指摘していますが、同時に林業試験場の調査結果として各種の病気などが発生している事を報告、「今日のような大面積の一斉林をつくったことは、この際検討の要があろう」と結論付けてもいます。
 黙々と今も成長を続けている北の大人工林。が、市場のカラマツに対する需要は減りはじめ、成長阻害要因も少なくはありません。北方林のカラマツ化は、1965年(昭和40年)ごろから時代の要求とはずれはじめました。しかも最近になり、
品確法(住宅の品質確保の促進等に関する法律)により使いずらくなりました。樹齢50年近いカラマツ林は壮観ですが、あれほど望まれた「早い成長」の成果は生かされていないようです。

新木場 吉田商店


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材木は曲がる反るクサル。生き物だったから。
コピーペーストできない。同じ物がないから。
ダカラ ヲモシロイ。

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